英語教育は何処へ・・・? 英語教室GP

小田切 寛

2014年10月21日 08:00

こんにちは。10月に入ってすっかり秋めいてきたのはよいですが、週初の2度に渡る台風には少々懸念を禁じえませんでした。また気が付くと10月も下旬へと向かい、改めて時の流れの速さを感じます。今年も早残り2ヶ月余りとは、既に年末の雰囲気が漂ってきましたね。そんな中、気の焦りからか自分のやるべきことをさっさと形にしなければと戒めているところです。

久々の投稿ですので、それまでお伝えしてきたことと重複させながら引き続き英語の効果的な学び方についてお話ししていきます。同時に前回、前々回と、これまで教室で起こったことに触れながら英語指導について考えをお伝えして来ましたが、今回は再度原点に帰って考えてみたいと思います。

特に最近、教室の大人の生徒さん達とよく話すことは、中学高校6年間、現在では小学校からの英語教育を含めれば7、8年は英語に触れ指導を受けているはずなのに、高校卒業時点でなぜ日常会話レベルの力すらも習得できないのかということ。いくら日本の環境だからといって、6年以上語学を学んだら言葉としての運用力は身について当たり前ですね。現在の英語教育、とにかく見直す時期に来ています。

中等教育の中で運用力が身につかない現実には、2つの大きな要因があると考えます。
1つは、言うまでもなく義務教育から高校までの英語指導方法とその基盤となるカリキュラム(教育課程)、そして他の一つは、大学受験から始まる大学教育の中での英語の位置づけです。前者に関しては、これまで何回も同じことを繰り返して述べてきた気がします。最も効果的な解決策は、英語を聞きながら、又は読みながらそのルールと表現を同時に習得できる指導方法を取り入れることと、それを実践するために語学力発達プロセスに長けた指導者による教育課程と教材の作りこみを実現することです。

そして後者に関しては、現在の大学受験英語から脱却して、運用力ベースの試験変更する必要があります。現在の大学受験英語の代替となる最も有力な試験は、何といってもTOEFLタイプの総合力判断試験でしょう。これを実践するためには、何も米国のETS (Educational Testing Service )に依存する必要はありません。大学には、それぞれ独自の考え方、強味、方向性があります。しかし高等教育の担うべき共通した責任は、学生達が社会に出た時、現実の厳しさに折れないような専門かつ実践的学問と知識の習得を実現することと、様々な環境の中で柔軟に対応できる考え方や思考力を要請することにあります。そのためには、世界という枠組みをしっかりと見据え、本当の意味での国際化を図る道を避けては通れません。各大学の独自性の中に真の国際化の種子とも言える言語としての英語を含めていくこともまた必要不可欠な要素です。

こうした英語に関する中等教育と高等教育の内容に整合性を見出して行く時、中高6年間の英語教育は画期的に変化することでしょう。

ではまず何から、どこから着手して行ったらよいのか、次回以降考えをお伝えしていきます。但し、途中でコーヒーブレイクも入れていきますが。。。

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